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カルタゴ、共和政ローマ時代に地中海貿易で繁栄し、その後、イスラーム教徒と戦う主要なキリスト教騎士修道会として、マルタ騎士団がこの土地の名前を一躍有名にした。
マルタの歴史は大変古く、新石器時代から人間が生活していたといわれ、『カート・ラッツ』と呼ばれるレールのように平行に穿たれた二本の溝が島内各所に残り、ジュガンティーヤ、スコルバ、タルシーン、ハジャイーム、ムナイドラの各神殿を始め多くの巨石文明の神殿が残されいる。
紀元前400年頃カルタゴの支配を受け、その後ローマに支配される。 地中海貿易で繁栄していたが、870年にアラブ人の侵攻を受け、1127年にノルマン人が占拠するまでイスラム帝国の支配下にあった。 その後、1479年にスペインの支配下に置かれ、1522年にロードス島を追われた聖ヨハネ騎士団(後のマルタ騎士団)の所領となる。
この戦いの直後、オスマントルコの再攻撃に備えて城塞都市ヴァレッタを築くことになる。
オスマントルコの再攻撃は無かったものの、エジプト遠征途上のナポレオンによってマルタは占領される。その後はイギリス支配下に置かれ、立地条件から第二次世界大戦ではイギリス軍の重要な拠点となった。 そして、1964年にイギリスから独立。 1989年には東西冷戦の終結を告げる歴史的なマルタ会談の舞台となり、2004年に欧州連合(EU)に加盟した。
11世紀に起源を持つ宗教騎士団。正式名称は「エルサレムの聖ヨハネ救護騎士修道会」(The Order of St. John of Jerusalem)。 テンプル騎士団、ドイツ騎士団と共に、中世ヨーロッパの三大騎士修道会の一つに数えられる。
第1回十字軍の後に設立されたが、もとになっているのはエルサレムの近くに聖ヨハネ病院を建てたのが始まりである。
救急医療団体として、聖地巡礼に訪れたキリスト教徒の保護を任務としたため、「ホスピタル騎士団」とも呼ばれる。 巡礼者の保護を目的に軍事化し、聖地防衛の主力となっていった。 そして、本拠地を移すに従ってロードス騎士団、マルタ騎士団とも呼ばれるようになっていく。
1187年にエルサレムが陥落し、最後のキリスト教徒の砦であったアッコンが陥落した後、騎士団は行き場を失いキプロスに逃れ、ロドス島に本拠地を移す。これ以降、ロードス騎士団と呼ばれるようになる。 そして、1312年にテンプル騎士団の資産が没収され、かなりの部分が聖ヨハネ騎士団に与えられた。 しかし、1522年、オスマン帝国のスレイマン大帝に襲撃され、6ヶ月間にも及ぶ必死の攻防戦を繰り広げたが、遂にロドス島を明け渡してシチリア島に撤退。
再び本拠地をなくした騎士団は、神聖ローマ帝国皇帝カール5世からマルタ島を与えられる。 マルタ島に移住した騎士団は、オスマン帝国の攻撃に備えるため、その地形を生かした要塞作りに着手。これ以降、聖ヨハネ騎士団は「マルタ騎士団」と呼ばれ、再度オスマン帝国と激突、「大包囲戦」に勝利する。
1798年5月、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス艦隊はマルタへ侵攻。 堅固な要塞都市を持ちながらも戦意を喪失していた騎士団は戦わずして降伏し、マルタ島を明け渡した。 大包囲戦に勝利し、平和な日々が続いた結果、騎士団の規律は徐々に乱れ、堕落していった結果である。 こうして聖ヨハネ騎士団は268年間の繁栄に幕を閉じた。
現在、マルタ騎士団員は団長以下約7400人。巨額の財産と病院などを持ち、「国土なき国家」として独自の憲法、政府機構を備え、隣人愛の立場から慈善運動などの幅広い活動をしている。また「マルタ騎士団」の名で50カ国へ外交使節を派遣し、1994年8月には国連のオブザーバーに選ばれている。
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